※本サイトに掲載している体験談は個々の患者さんのご経験をインタビューした
内容に基づき作成しています。病状や経過、治療への向き合い方などはお一人おひとり異なります。
内容に基づき作成しています。病状や経過、治療への向き合い方などはお一人おひとり異なります。
かず様の体験談
発症 / 診断
B型肝炎からステージⅡの肝細胞がんへ移行
大学生の頃、献血を機にB型肝炎ウイルスに感染していることがわかりました。10年ほど後に、母も肝炎を発症したことで、出産時の母子感染であることを知りました。感染が判明したときは特に症状もなく、経過観察していけば良いとのことでしたが、大学卒業後2年間、パラグアイでJICA海外協力隊の活動をして帰国した年に肝炎を発症し、2年ほど、炎症を抑えるための注射のためにほぼ毎日通院治療を続けました。炎症が落ち着いた後は、3ヶ月おきに血液検査等で経過を診ていただく日々でした。
夫の転勤等が落ち着き、産休代替教員として小学校に勤務し始めましたが、その2ヶ月後にクリニックの定期検診の際の肝臓エコーで複数の影が存在したため、総合病院でCTやMRI等で精密検査をしたところ、腫瘍の数からステージⅡの肝細胞がんと診断されました。
B型肝炎ウイルス感染から肝細胞がんに移行する例はそれほど多くないと聞いていたことや、肝細胞がんは比較的高齢の方の病気だと思っていたこともあり、告知を受けたときは、「まさか」と信じられない気持ちと、「なってしまったのか」との気持ちが交互に訪れ、頭の中が真っ白になるというのはこういうことかと思うくらい何も考えられない状態でした。
がんと聞くと、どうしても死を意識してしまうこともあり、家族と一緒の時は忘れられても、一人になるといつまで息子と一緒に過ごせるのかなどと不安になってしまい辛いこともありました。
夫の転勤等が落ち着き、産休代替教員として小学校に勤務し始めましたが、その2ヶ月後にクリニックの定期検診の際の肝臓エコーで複数の影が存在したため、総合病院でCTやMRI等で精密検査をしたところ、腫瘍の数からステージⅡの肝細胞がんと診断されました。
B型肝炎ウイルス感染から肝細胞がんに移行する例はそれほど多くないと聞いていたことや、肝細胞がんは比較的高齢の方の病気だと思っていたこともあり、告知を受けたときは、「まさか」と信じられない気持ちと、「なってしまったのか」との気持ちが交互に訪れ、頭の中が真っ白になるというのはこういうことかと思うくらい何も考えられない状態でした。
がんと聞くと、どうしても死を意識してしまうこともあり、家族と一緒の時は忘れられても、一人になるといつまで息子と一緒に過ごせるのかなどと不安になってしまい辛いこともありました。
副作用への対処については、ご自身で判断せず、必ず医師や薬剤師・看護師等にご相談ください。
肝切除 / 焼灼
TACE
TACEやRFA、PEIT等の複数の治療を受けた
主治医からは、病状は今すぐ身体への影響はなく、複数ある腫瘍に直接抗がん剤を注入し一つ一つ潰していく肝動脈化学塞栓療法(TACE)で、効果をみながら治療していきましょう、と言われました。実際に体調に変化もなく、治療がうまく行けば自分はがん患者ではなくなるのだ、と自分を奮い立たせました。
TACEについては、先に肝細胞がんになった母の付き添いで、治療の説明も経過も理解していたのでそれほど不安はありませんでした。辛かったことといえば、術後の安静で腰が痛くなったことくらいです。最初の治療では、退院後も1週間ほど仕事を休み療養しましたが、その後は全く支障なく仕事に復帰することができました。
TACEの効果がなかった部分には、ラジオ波焼灼療法(RFA)をすることになりました。仕事に配慮していただき、12月の冬休みに入ったタイミングで治療し年内に退院しました。
翌年3月末に仕事を退職し、5月に2回目のTACEをしました。このときは退院後の倦怠感が強く、家の中で横になっていることが多かったです。やる気はあるのですが、体が動かなかったんです。そのときも夫が家事をよくやってくれて、助かりました。TACEはその後にもう一度行い、同年に経皮的エタノール注入療法(PEIT)を実施したのが最後の治療です。長時間同じ姿勢を保つ必要がありましたが、治療をしながら先生と話をしたりもできましたので、それほど辛いと感じませんでした。
TACEについては、先に肝細胞がんになった母の付き添いで、治療の説明も経過も理解していたのでそれほど不安はありませんでした。辛かったことといえば、術後の安静で腰が痛くなったことくらいです。最初の治療では、退院後も1週間ほど仕事を休み療養しましたが、その後は全く支障なく仕事に復帰することができました。
TACEの効果がなかった部分には、ラジオ波焼灼療法(RFA)をすることになりました。仕事に配慮していただき、12月の冬休みに入ったタイミングで治療し年内に退院しました。
翌年3月末に仕事を退職し、5月に2回目のTACEをしました。このときは退院後の倦怠感が強く、家の中で横になっていることが多かったです。やる気はあるのですが、体が動かなかったんです。そのときも夫が家事をよくやってくれて、助かりました。TACEはその後にもう一度行い、同年に経皮的エタノール注入療法(PEIT)を実施したのが最後の治療です。長時間同じ姿勢を保つ必要がありましたが、治療をしながら先生と話をしたりもできましたので、それほど辛いと感じませんでした。
入院中支えになったものの写真
夫の「一緒に頑張っていこう」という言葉に支えられた
診断時はショックを受けたものの、「早く見つかって良かった」と前向きに考えるようにして、あまり悲観的にならないよう努めました。夫には「大丈夫だ」と思ってもらえるような言葉を選んで話をしたからか、一緒に頑張っていこう、という反応でした。当時小学校6年生だった息子には、がんであることは伏せ、「肝臓の病気で入院してくるね」と話をしました。頼れる両親や親戚が近くにいない環境でしたが、私が入院中は、仕事が忙しくても普段から家事に協力的だった夫と息子が、洗濯や炊事を頑張ってくれて、2人で留守番をしてくれました。家族からは、いつもと変わらずに接してもらえたのが嬉しかったです。
先に肝細胞がんになっていた母が亡くなったのですが、息子は私が母と同じ病気であることを知っていたので不安になっていると思い、翌月4回目の入院をする際、主治医から息子に私の病気について話をしてもらいました。先生から医学的にきちんと伝えてもらえたのは良かったと思います。息子が学校で何度も保健室を訪問していたことを後から知りましたが、保健室や担任の先生が気をつけて見守ってくださっていたことも有り難かったです。
先に肝細胞がんになっていた母が亡くなったのですが、息子は私が母と同じ病気であることを知っていたので不安になっていると思い、翌月4回目の入院をする際、主治医から息子に私の病気について話をしてもらいました。先生から医学的にきちんと伝えてもらえたのは良かったと思います。息子が学校で何度も保健室を訪問していたことを後から知りましたが、保健室や担任の先生が気をつけて見守ってくださっていたことも有り難かったです。
職場からは治療に専念するように言われ有り難かった
診断時はフルタイムで教員をしており、担任も持っていたのですが、校長に話したところ、病気休暇もあるし、他のクラスの先生も協力してくれるから心配せず治療に専念するように、と言われ、最初のTACEの際は1週間ほどの入院の後、1週間自宅で休養させていただきました。有り難いと思いましたが、このときは正直、仕事は辞めてしまいたいと思っていたこともあり、心境としては少し複雑ではありました。
その後の治療のスケジュールも主治医に配慮いただき、年度が変わる3月末まで勤務を続け退職しました。
その後の治療のスケジュールも主治医に配慮いただき、年度が変わる3月末まで勤務を続け退職しました。
治療を重ねるごとに再発への不安が増した
治療を始めるときは、1つずつ腫瘍を潰していこうと気持ちを奮い立たせていましたが、TACE、RFA、PEITと治療を重ねるごとに、まだ続くのか、治らなかったらどうなるのか、など考えて不安になりました。腫瘍の位置から切除手術は難しいため、局所治療ができなくなったらどうするのか自問自答したり、先生にも聞きました。病気や治療のことについては、インターネットなどでかなり調べていました。私が肝炎を発症した当時は治療法がほとんどありませんでしたが、今は治療の選択肢も増えてきており、体調を保っていけば今後も新しい治療法が出てくるのではとの希望に繋がりました。また、できるだけ公的な情報を見るようにしていました。
主治医とは遠慮なく説明を聞ける信頼関係を構築
診察の前にはいつも「何か必ず1つ聞いて帰ろう」とシミュレーションしていました。説明を聞きながら疑問が生じたら、ちょっとしたことでもすぐに聞くようにしています。同じことを何度も聞くこともありますが、先生には遠慮なく聞ける信頼関係ができていると思います。
入院のときには、同室の方々は自分よりかなり年上の方が多かったので、年齢が近く家族構成や子供の年齢も近い看護師さんとのちょっとした雑談に癒されました。
入院のときには、同室の方々は自分よりかなり年上の方が多かったので、年齢が近く家族構成や子供の年齢も近い看護師さんとのちょっとした雑談に癒されました。
がんとの向き合い
同じ病気を経験した友人や患者会の方との交流が励みに
最初の入院のとき、がんを経験した友人が訪ねてきてくれて、「あなたなら大丈夫」と言ってもらえたことは嬉しかったです。同じ病気と向き合っている方からそう言われると、素直にそう思えますし、励みになりますよね。
母が亡くなる前に状態が悪化していく様子を見て、同じ病気だったので、自分と重ね合わせて1日1日を大事に過ごさなくてはとか、自分も同じようになったらどうして欲しいかなど考えました。母が他界した頃、気持ちは一番落ち込みましたが、息子へのケアも気になり、親の立場でがんになった方々のオンラインの患者会に参加してみました。そこで知り合った方から地元で活動している患者会を教えていただいたのですが、そちらではがん教育にも取り組んでおり、教員をしていた私にも何かできるかな、と思えました。患者会の方々が輝いて見え、病気のことばかり悶々と考えている時間がもったいないと感じるようになりました。将来への不安はありますが、新しいことにチャレンジすることで少し気持ちが切り替わったように感じます。
最後の治療からまもなく1年が経過します。「次の定期検査のMRIで悪化していませんように」、「治療が効いていますように」と願っています。現在体調は良好で、夫とウォーキングを楽しんだり、やりたいと思っていたけれど今までチャレンジできなかったパラグアイハープをオンラインで習いはじめました。先の目標を持つと楽しくなりますよね。いつか人前で演奏するのが目標です。
母が亡くなる前に状態が悪化していく様子を見て、同じ病気だったので、自分と重ね合わせて1日1日を大事に過ごさなくてはとか、自分も同じようになったらどうして欲しいかなど考えました。母が他界した頃、気持ちは一番落ち込みましたが、息子へのケアも気になり、親の立場でがんになった方々のオンラインの患者会に参加してみました。そこで知り合った方から地元で活動している患者会を教えていただいたのですが、そちらではがん教育にも取り組んでおり、教員をしていた私にも何かできるかな、と思えました。患者会の方々が輝いて見え、病気のことばかり悶々と考えている時間がもったいないと感じるようになりました。将来への不安はありますが、新しいことにチャレンジすることで少し気持ちが切り替わったように感じます。
最後の治療からまもなく1年が経過します。「次の定期検査のMRIで悪化していませんように」、「治療が効いていますように」と願っています。現在体調は良好で、夫とウォーキングを楽しんだり、やりたいと思っていたけれど今までチャレンジできなかったパラグアイハープをオンラインで習いはじめました。先の目標を持つと楽しくなりますよね。いつか人前で演奏するのが目標です。
読者へのメッセージ
患者さんには、ひとりで悩まないで欲しいと思います。患者会や、誰か信頼できる方に思いを聞いてもらえると、それだけで心が軽くなると思います。ただただ聞いてくれる方をどなたか見つけて、思う存分お話しできれば、モヤモヤが晴れてすっきりして、前を向く力になると思います。
また、医師との信頼関係も大切です。医師も人間ですから、人と人とのお付き合いの基本である思いやりをもって、普段から良い関係を築いていくよう心がけておかれると良いでしょう。